立秋となった。 本日18時01分、太陽黄経135度。
例年、この日を過ぎて聞かされる「決まり文句」がある。
「暦の上では秋なのに、暑さはまだまだこれからだ」、というのだ。
しかし、この台詞、ある種の思考停止ではないだろうか。
暦が実情に合わないと感じるなら、暦を訂正するという方法を考えよう。
この暦は占領軍に押し付けられ、変更不可能というものではない。
毎年毎年同じ不満を言うのなら、思い切って全国民に呼び掛けてみてはどうだろう。
現在に於いては、明治政府によってキリスト教由来の暦が選ばれているが、
この「立秋」は中国の暦を起源としている。
先ず、なにが「立秋」なのか、整理してみるべきだ。
「立秋」の言葉は「二十四節気」にある。
この二十四節気は感覚的なものではない。むしろ科学的なものである。
この基本は、ひと言で言えば、「二至二分の間に四立をおいたもの」。
実に簡明な表現で、この説明は素晴らしいと思う。
「二至二分」は完全に動かし難いもの、冬至と夏至と春分と秋分。
それらの中間点によっつの節気を加えて八節という。
つまり、二至二分と四立とは、冬至、立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬。
そこで、問題の立秋だが、「立秋とは、初めて秋の気立つが故也」。
立秋の次は「処暑」、「白露」、「秋分」と続いてゆく。
その節気を、それぞれ5日ずつ、みっつの候に分け、「七十二候」とも。
立秋の初候は涼しい風が立ち始め、
次候はヒグラシがカナカナと鳴き始め、
末候には霧が深くなる。
ここで、最初の話に戻りたい。つまり、この時点で「秋」という言葉に違和感が
あるという意味なのだろう。
太陽黄経135度のポイントに、多数が納得できる新しい呼び名を考え出せば良い。
今、ここで提案できる候補はないが、皆がそのつもりなら解決できるのでは?
個人的には、「秋の気が立つ」という言葉は納得できる。
この日からデジタルに夏と秋を区分けしようというのではない。
昔の季節感と現在の季節感が違うのも分かる。地球の傾きも変わるのだから。
立秋の「立つ」の解釈が、意味を分けてしまうのかもしれない。
「この日以降、ふとしたときに、秋の気配が感じられるようになる」と言われて、
この言い方も悪くないな、と思えてくる。
暑くてイライラするのはお互い様、
クールな音楽でも聞いて、頭を冷やして考えてみよう。
Musik
Autumn Leaves - 1966 BILL EVANS