オジイさんは山へ「しばかり」。 オバアさんは川へ「せんたく」に。
オジイさんは山で大きな「栗」を拾う。 オバアさんは川で大きな「桃」を拾う。
三年後、栗から「栗田郎」が生まれ、桃から「桃太郎」が生まれる。
これが桃栗兄弟伝説の序説だが、言葉は残ってもその意味が伝わらないことがある。
子供たちは「川で洗濯」は理解した。
ところが、「しばかり」には驚く反応が待っていた。 つまり、彼等が想像するそれは「芝刈り」なのだ。 (それは庭でやるものじゃんか)
基本的生活を維持するインフラ設備の問題だ。 この話の舞台は、水道もガスも電気も無い時代だったということ。
料理をしたり、暖を取ったり、その燃料を、オジイさんは山で集めて来るのだが、それは理解されない。
この行為は「芝刈り」ではなく、「柴刈り」なのだ。
言葉の意味は伝承してゆかない。
さて、この家のオジイさん(わたしのことだ)は、この両方をやらなくてはならない。
樹木は育つ、どんどんどんどん育つ。 それを剪定して、薪にする。
これは、いわば「柴刈り」というものでもある。
それをやりつつも、もうじき庭の草も伸びてくる。 今度は「芝刈り」なのだ。
「柴刈りと芝刈り」、両者を綯い交ぜにしたハイブリッドな庭仕事を頑張る。
さすがはプロのガーディナー。 そして、広義には「御庭番」である。