New Zealand で大きな地震があった。
わたしたち日本人には珍しいことだったかもしれないが、多くの同胞が偶然に大きな影響を受けた。 どのような形にせよ世界中のいろいろな場所に出掛けていれば、どこかで何かに遭遇することはあるだろう。 そして、それはどこの国の人間でも同じことだと思う。 人々は流動する。 どこかで事件事故が起こる、災害が発生する。
今回は日本人が集合していたビルが倒壊した。 そのことが想像以上の被害を受けることに繋がったようだ。 地震発生後の時間は容赦なく過ぎてゆく。 意外なのは、情報が出て来ないことだ。 これはその国の事情によるのだな、と思わされる。 責任問題、死生観など、感覚の違いが想像できる。
起こってしまった天災は受け止めるしかない。 その後の、倒壊現場での救助、捜索活動は全力で行なわれたが、残念ながら、時間の経過がその活動を終了させたようだ。
これからは遺体の収容作業に移行するという。 数人でも助けられたことが奇跡だったようだ。
でも、たくさんの人がこれ以上の奇跡を望んでいる。
現地へ、日本からも報道陣が出掛けている。
時間が経ち、彼等の滞在時間が永くなる。 興味深い変化を見た。
これは地震に直接関係ないのだが、以前から思っていることをひとつ。
この国の名前を、我が国では、申し訳ないことに、礼儀を欠いて呼ぶ習慣がある。
間違っているということは失礼なこと、それにこれはアクセントの問題とは違う。
この国の名は、「ニュー・ジーランド」。
決して「ニュージー・ランド」ではない。
New Zealand なのだ。 新しい「ジーランド」。 (英語なら Sealand)
もちろん、ヨーロッパから来た人々がマオリから奪ったものであるけれど、雲が白くて長い「土地」はオランダ人が名付けた「新しい海の土地/Nieuw Zeeland」に由来する。 (オランダにはゼーラントという地域がある)
現地からのリポートでも、ついうっかり正しくその名を呼んでいたのを聞いた。 それで良いのではないだろうか。
言葉の選択や、発音の選択は時代が決めるものではあるけれど、新しい選択肢が提示されたと感じられた。 変化は起こるのだろうか。
「国の名」である。 敬意を持ちたい。 相手に対する思い遣り、相互の思い遣りの積み重ねが大事だと思う。 間違いは訂正してゆけば良いのだ。