落葉が「葉」にとって命の終わりなら、その直前に、なぜあのような大仕事をするのだろう。 紅黄褐の色変化は、その直接的な原理は理解されても、樹木の一年、もしくはその一生の中で、何を意味しているのか、いつも不思議に思う。
もちろん、「人に見せるためではない」、それだけは確かだろう。
でも、その終焉は人々の情緒に訴えかける。 紅葉に対するシンパシーは、ことさらに日本人特有の感覚と聞く。
桜の散りゆく姿に惹かれる心情に通じるものか。
枯れゆく直前の狂おしい色の変化に、日本人は共鳴するようだ。
違う言い方をするなら、紅葉こそが、その葉の本来の姿。 普段はクロロフィルにより殆ど見分けの付かない緑色に、甘んじている。 気候の変化により、葉緑素が分解され、その真の姿を現したとも言えないだろうか。 花が咲いたり、葉が色付くときにその個性が露になる。 しかし、殆どの時間を「緑色」で過ごす。
この視点は面白い。 これも灰かぶり姫だろうか。
日本人に、あれほど人気の「桜」でさえ、夏は見過ごしにされているようだ。 花や紅葉の時季だけに湧き立つのではなく、春夏秋冬にその美しさも、感じ取りたい。 見かけの華やかさではなく、生まれ、始まり、死に、終わる、それらの繰り返しに心を通わせることが、花鳥風月を楽しむということかもしれない。
きのうは、横浜の「反町公園/たんまちこうえん」へ撮影に行って来た。
木の葉は色付き始めていた。
殆どの樹木と同じように、ここでも、人によって植林が行なわれたものだろう。
赤いほどの色付きは見られなかったし、鮮やかな変化というほどでもなかった。 横浜駅の近くである、気温差の変化は少ない。 緑と黄色の淡い組み合わせが新鮮で美しく見えた。
紅葉の写真というには、ほど遠いけれど、街中でも見せてもらえる秋の賜り物。