先ず、なにが「立秋」なのか、整理してみるべきだ。
「立秋」の言葉は「二十四節気」にある。
この二十四節気は感覚的なものではない。これこそ科学的なものである。
この基本は、ひと言で言えば、「二至二分の間に四立をおいたもの」。
実に簡明な表現で、この説明は素晴らしいと思う。
「二至二分」は完全に動かし難いもの、冬至と夏至と春分と秋分。
それらの中間点によっつの節気を加えて八節という。
つまり、二至二分と四立とは、
冬至、立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬。
立秋は太陽黄経135度、それだけの意味である。
(春分の日を、太陽黄経0度と定めて基準としている)
そこで、問題の立秋だが、「立秋とは、初めて秋の気立つが故也」。
立秋の次は「処暑」、「白露」、「秋分」と続いてゆく。
ここで、最初の話に戻りたい。つまり、この時点で「秋」という言葉に違和感が
あるという意味なのだろう。 実際の生活の中での実感では、まだまだ暑い。
そこに、「秋」という言葉を使ってくれるな、という感覚は分かる。
この日からデジタルに夏と秋を区分けしようというのではない。
でも、個人的には、「秋の気が立つ」という言葉は納得できる。
それに、自分の住んでる場所だけのことを考えてはいけない。
それは自己中心的に過ぎるだろう。
わたしたちはこのクモの巣の中で離れた地域の人々と交流している。
「ああ、そちらでは今頃、この花が咲くのですね」。 大事なのはこの感覚を失わないこと。
日本中、世界中を見渡したいものだが、それは難しい。
けれど、違う季節感を持つ人がいることは理解できる。
季節感は地域に深く関わるもの。
「この日以降、ふとしたときに、秋の気配が感じられるようになる」と言われて、
この言い方も悪くないな、と思えてくるのだが、如何?