シロの中にピンクが混じるものもあるけれど、ムラサキに近いものが、数輪だけ咲いてくれる。 庭の花を花瓶に挿す、これは花を生ける基本のひとつだろう。
近所の線路際にオダマキと思われるものが咲いていたので貰って帰った。
オダマキはおもしろい。 花はよく知らなかったが、カタクリのようでもあり、花が落ちた後も綺麗だ。
花器の花には短い命が定められている。 枯れてゆくのを見ていた。 なぜって、見ていたかったからだ。
ここで音楽を選ぶとする、
普通に考えるとR.シュトラウスの「死と変容/Tod und Verklärung」などだろうか。 昔からの記憶で、そのように呼んでしまう。 ドイツ語のニュアンスは分からないけれど、最近は「死と浄化」と記されることも多い。
良きものへの変化を表しているのだろう。 (しかし、この場では長過ぎる・・・)
聞くことがあるなら、希望の気持ちを思い出してほしい。
若いうちは思わないが、この歳になると毎日毎日、死に向かっているという感覚は頭の中で少しずつ大きくなる。 本当に全てがなくなるのだろうか。 それは不思議な出来事に感じる。
「誰かの命日は、誰かの誕生日でもある。」
死もあれば誕生もある。 そうして命はつながってゆく。
Baiba Skride-Bach Partita No.2 D minor-Giga
最後に付いた言葉「Giga」は「Gigue」と同義、ジーグは、バロック音楽の組曲で終曲として使われる「6/8 拍子」、「3/8 拍子」の軽快な舞曲。 終わりが楽しければ有り難いことだ。
人生って、変奏曲のある組曲かもしれない。
だったら、その呼び方のひとつはパルティータ?
押し花になってもかなりの迫力、飛び跳ねているように感じた。 ここまで来ると、「死の舞踏」でも良いくらい?
死は、残された者には、どのような死でも理不尽に感じられるものだ。 でも、生きているもの全てに、公平に与えられたものはこれしかない。