花供養というと、何を思い浮かべるだろう。 新作の「能」がある。 それから実際には知らないが、親しかった人の遺灰を混ぜ込んだ陶土で花瓶を焼き、そこに花を挿して先に行った人を想う、というのがあるそうだ。 一般的には、花に世話になっている人たちがお礼を言う行事だと思う。
同じ場所の一か月前の様子。
一筋縄ではいかぬ春が遅れながらやって来て、いろいろなブログ上には「花の写真」が舞い踊る。 我が家でも庭の花は春を告げてくれ、写真も撮らせてもらい、やがて枯れてゆく。 庭の花をどのように手当てすれば良いのか分からない。 一年草はアサガオくらい、これはタネが飛び散っていると思う。 その他は基本的に多年草/宿根草。 球根は土から掘り出せ、などとも言われる。 我が家では何もしない。 庭の植物は勝手に主役を交代しながら一年が繰り返されてゆくのだ。 倒れたハナニラの次にはミョウガが出てくる予定だから、枯れてゆくところも楽しもう。
刈り取らないことが、我が家の「花供養」かもしれない。
有名な「タイスの瞑想曲」、アナトール・フランスの原作からジュール・マスネが作曲したオペラの間奏曲。 主人公の娼婦タイスは悩んで考えている、その瞑想の様子を表す音楽。 キリスト教の修道士から、改悛・改宗を迫られている。 どうして彼等はこんなに押し付けがましいのか。 自分だけが正しいと思うのか。
倒れた花がそのままでも良いではないか、とは考えないようだ。
枯れたら引っこ抜き、その場所には買ってきた苗をボンと置いて、過剰な肥料を与えるような感じがする。
花供養という言葉からは遠く思えてしまう。
何も仕掛けなくとも、こんなに楽しませてくれるものなのだ。