先日の、フィギュアスケート全日本選手権を見ていて、どうにも気になってしまう。
音楽は、できれば、演奏するものであってほしい、そして聞くものであってほしい。
だから「知るもの」「語るもの」ではないといえる。 けれども、そう思うと悩みが深く
なる。 その話題に絡ませて、ふたつほど考えをまとめて、ここで紹介してみたい。
安藤のショートプログラムは、W.A.モーツァルトの「レクイエム ニ短調」からの抜粋。
日本にもキリスト教者は少なくないだろうが、カトリック教徒はどのくらいの数なのか、
それはまったく分からない。
可能な限り簡単な話にしたいところだ。
実は「レクイエム」はカトリックの音楽である。
(こういうところが日本人にはピンと来ない)
西洋音楽史的に捉えても名曲は多く、前出のモーツァルトも誉れ高い。
例えば、淡谷のり子という歌手がいた。 我が国ではブルースの女王と呼ばれた。
それが、学術的にブルース(ブルーズ)であるかといえば、それは違うと言える。
彼女の歌や歌い方の心情的な部分が、ブルーズに通じるものがあるという意味だろう。
ブルーズは、ポピュラリティーを得ている現代の音楽の大きな「根っこ」である。
12小節で構成され8小節の問いに、自らか、他者からか、4小節で応える問答歌のような
ものだと言って良いだろう。
それが60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンによって、アメリカに逆輸入され、
様々な変容発展を勝ち得て、現在に至る。
「レクイエム」という言葉も、淡谷のブルースのように、少しズレた使われ方をしてしま
う場合があるようだ。 それはある意味、仕方がない。
キリスト教のそのような概念は、わたしたちには理解しにくいものだから。
モーツァルトのこの曲は、正統的に「死者の安息を神に願う儀式のための音楽」である。
安息を願う、ということは魂を鎮めることではない。
これは罪深い誤訳と言うべきだが、「鎮魂曲」という言葉は間違いということになる。
唐突な話に聞こえるかもしれない。 普段、詳しく意識しないことだと思う。
しかし、正統なレクイエムを鎮魂曲とは呼ばない方が良い。
是非、「鎮魂曲」という概念を変えて貰いたいところだが、興味を持って頂けたなら、
ご自分で自由な方法で調べていただければ、この世から誤解がひとつ消えてゆく。
たくさんの意見から判断をお願いしたいところだ。
もうひとつの話は、あした。
ご参考で 「wiki/レクイエム」
これまた、ご参考でモーツァルトのレクイエム